1.はじめに
20世紀末から今世紀にかけて西欧を中心に論議され始めた政治の「メディア化」(メディアタイゼーション/Mediatization)は、ニュースメディアと政治との関わりにおける概念である。
フランク・エッサーとイェスパー・ストロムバックは「メディア化」は「確立した民主制度の変容におけるメディアの役割を理解するための鍵となるコンセプトである」と指摘し、「グローバル化や個別化など社会的変化を推進する過程と同じくメタ・プロセスである」という考え方を支持している[i]。
そのプロセスは、制度としてのニュースメディアが政治過程や政治制度に及ぼした効果の長期的な過程であり、政治とメディアとの間の相互作用における変化が、政治とメディアのバランスを狂わせる過程であり、制度としてのニュースメディアとニュースメディアのロジックの高まりが政治-メディア間の関係が生じる構造と枠組みを形成する過程であると論じている。
政治と社会についての最も重要な情報源をメディアが構成し、それゆえに調和し累加する報道を通じたニュースメディアが大衆の意見に影響を及ぼすことができ、公的支援に依存する政治的組織やアクターたちがニュースメディアを通じてコミュニケートしなければならないという理解が「政治のメディア化」の主要な前提条件となる。
「政治のメディア化」の次の段階は、ニュースメディアが政治的組織やアクターたちに対する依存性をなくしますます自律性を高めるに連れて、政治や社会の報道は、プロフェショナリズム、メディアのコマーシャリズムやテクノロジーの組み合わせによって生じる力で形づくられるニュースメディアのロジックにますます従うようになり、政治形態、政策や政治の組み合わせの力学で形作られる政治のロジックにますます従わなくなることである。すなわち政治的組織やアクターたちは、ニュースメディアやニュースメディアのロジックに適応することがますます期待されているということに気がつくのである[ii]。
ストロムバックは「政治がメディア化されればされるほど、メディアが政治や社会から独立しているかよりも、政治や社会がメディアから独立しているかどうかが重要な問題となってくる[iii]」という指摘をしているが、その背景にはメディアが次第に巨大化し、そのメディアのロジックに政治が従属しつつあるのではないかという危機感に根ざしていると考えられる。だがそのような危機感とは別に、アメリカのようにメディアと政治の民主的なモデルとなる国々ではコマーシャリズムが台頭しているという報告[iv]にしめされた傾向は、メディア・ロジックの構造におけるプロフェッショナリズムとコマーシャリズムの不均衡がメディア・ロジックそのものを歪めているのではないかという可能性を示唆している。そのような観点を踏まえ、本論ではマスメディアの視点から、すなわちマスメディアの役割や機能の検討からその問題点を考察しながら、「政治のメディア化」についての予備的に論じようと考えている。
2.マスメディアと大衆
「政治のメディア化」の議論がヨーロッパで盛んな理由のひとつは、テレビに限って述べるなら、主要なヨーロッパの放送制度が、テレビ放送の初期から公共放送であったことに起因すると考えられる。例えばフランスの場合、公共放送以外の商業放送は1980年代の半ばに実現したもので、それ以前の放送局は国家の権力に属したニュース機関であった。対立するような報道が存在しない中では、メディアとしての自律性の確証を大衆にもたらさなかったと考えられる。フランスにおいて、放送法が成立して商業放送が可能になるまでの放送制度は国家権力に内包されており、放送メディアは権力の支配下に置かれていた。同様にドイツ、スイス、北欧でもテレビ放送は公共放送制度として国家の管理の下で始められた。多くの西欧諸国において放送(や通信社)は「資本需要が巨額であり、その公論的勢力も脅威的におもわれたので、いくつかの国々では、これらのメディアの設置が周知のようにはじめから国家的運営の形をとり、あるいは国家的統制のもとにおかれた[v]」のである。1980年後半にはフランスやドイツで商業放送が立ち上がり、経済の自由市場において公権力から独立した放送メディアが制度化され、放送メディアが政治から自律した公共圏を形成することが可能になった。それは政治と公共圏の間にコマーシャリズムに依存するマスメディアが介在するようになったということである。そのような公共圏における公論の生成において、大衆とマスメディアの関係性は極めて重要である。以下ではまず大衆とマスメディアの関係について、主としてメディアの機能や効果から検討してゆきたい。
ルネ・ベルジェは「テレビジョンのコミュニケーションは、本質的に一方通行であり、会話や文字によるコミュニケーションの場合のような調整が困難になって」おり、それゆえに「テレビジョンが当局、経営者、管理職、番組編成者、制作者の考えに拘束されていることに注目すべき[vi]」だと、テレビジョンの一方的な伝達というコミュニケーションの様式に権力性を見出している。ここでベルジェが言及している「調整」とは、文字によるコミュニケーションでは、文字で保存されたメッセージのパッケージを普及させるデフーザーやそのメッセージを理解するためのリテラシーをあらかじめ教育する調整者がいるということであり、オーディエンスは一方的な情報の伝達にさらされるのではなく、受信者として発信者と対等の立場が守られているということである。だがテレビ放送は「独占的な発信者と、いみじくも標的(・・)と(・)して(・・)の(・)大衆(・・)[vii]」とのコミュニケーションになっているとベルジェは指摘している。それはダニエル・ブーアスティンが「〔かつて〕民衆は自己を表現した。(中略)民衆は声であった。しかし、マス・メディアと大量流通の支配するわれわれの世界では、大衆は的であって矢ではない。耳であって声ではない。大衆とは、他の人間が印刷物・写真・イメジ・音などの手段によって近づこうとする存在である[viii]」と論じた大衆である。
そのような大衆は、テレビからどのような影響を受けるのかに関してはメディアの効果に関するアメリカでの一連の研究による知見が多くのことを示唆している。
マスメディアの社会的機能のひとつとして「地位付与の機能[ix]」がある。それは社会的な問題、人物、組織および社会的活動に地位を付与する機能を示し、メディアで取り上げられることで社会的地位が高められるという効果があるということである。逆もまた然りで、マスメディアは同時に、社会的地位を貶め、地位を剥奪という機能もある。「地位付与の機能」は、「マスメディアが支持する特定の政策や人や集団を正統化することによって、組織的な社会的活動に一役買う[x]」のである。一方でマスメディアが取り上げることによって誤った地位が付与される可能性があることをわれわれは無視することはできない。
また「コミュニケーションの二段階の流れ[xi]」もコミュニケーションと世論についての一般理論の形成の中心的な位置にある。政治の「争点」はパーソナリティや専門家に伝わった後、メディアを通じて彼らの発言によって受け手に伝えられる際に、そのパーソナルな語りかけや専門的なコメントが世論に対して影響力を発揮する。これはマスメディアが大衆に「争点」を伝達するコミュニケーションの様態であり、マスメディアは政治的、社会的問題を“恣意的に”争点化することができるのである。もちろんその有効性は、いくつかの変数によって左右される。バーナード・ベレルソンは「ある種の争点(・・)についての、ある種のコミュニケーション(・・・・・・・・・)は、それがある種の条件(・・)に置かれている、ある種の人びと(・・・)の注意を引くならば、ある種の効果(・・)を持つ[xii]」という定式を示し、これらの5つの要素がそれぞれ変数として作用しあうことで、世論は流動的にもなれば、固定的にもなると論じている。それはマスメディアが、それらの変数を操作することで世論を自在に生成することができる可能性を示していると考えられる。
1976年のアメリカ大統領選挙におけるマスメディアの影響を調査したデービッド・H・ウィーバー等は、ジャーナリズムは、何がニュースであり、何がそうでないかを定義する慣例的な基準(=職業的ニュース・バリュー)があり、そのニュース・バリューは人々が世界を覗くプリズムであり、現実はそのプリズムによって屈折し、濾過されて、伝えられる。われわれにとっての日々の現実の見取り図を描く過程で、ニュース・メディアは能動的な役割を担っており、その役割の働きは、少数の重要な争点や状況に注意を集中し、その他の争点や状況を無視するという必然的な副作用がある、と指摘している[xiii]。
またカート・ラングとグラディス・エンジェル・ラングが行った研究[xiv]では、「カメラと解説の選択性は、群衆のなかの見物人にとっては非存在の、それゆえに直接的な観察によってえられた「現実」とは対照的な非常に特殊な『現実』を提示することで、事件に個人的な次元を加えた[xv]」とテレビというものが政治的現実を変えることができると言うことが確認され、その現実を変えることのできるテレビによる構造化を次の3点だと分析している。まず何が重要であるかに関して、選択的に情報を切り取り、場面を切り替えるという「技術的な歪曲」であり、次に一定の視点から現実をとらえることで、視聴者に対して安定した視座を与える「ナレーションによる情報の補足、再構成」、そして最後に、ほどこされた演出に対しての反応が新たな演出効果をもたらす「相互作用」である。
ウォルター・リップマンは、大衆はメディアを通じて与えられた情報の「あるがままを事実として受けとめるのでなく、自分たちが事実だと想定しているものを事実として[xvi]」認識すると指摘している。つまり人間の頭の中にある種のイメージを送り込むことで、現実を別の現実に変えうる力をメディアは持っていると語っている。そのわかりやすい例が英雄崇拝と悪魔祓いで、メディアを通じて発信される情報と大衆の心理が作用することで簡単に生じる事例を挙げている。
このように大衆はマスメディアを通じて現実世界から切り取られた一部の現実を受け取り、それを争点として認識し、与えられた議題を私的な集団やコミュニティで議論し、世論を創り出してゆくように見えるが、それは大衆が論じるに先立ってあらかじめ作り出された擬似的な世論に過ぎないとも考えられる。ブーマスティンが論じるように、「テレビが発達し、ニュースが現場からテレビ放送できるようになった結果、本当の、ナマの出来事をありのまま報道する力が強まったに違いないと期待するかも知れないが、皮肉なことに、テレビの発達は、それ以前の複製技術の進歩と同じように、より多くの、そしてより精巧な疑似イベントを作り出すのに成功したのである[xvii]」。つまり「理屈の上では、すべての国民は、公共の関心に属する問題に対しても、各々の行為に関する問題に対しても、自分自身で何が適切な判断なのかを決定していることになっている。しかしながら実際には、すべての人間が、さまざまな問題に含まれる政治的、経済的、道徳的な雑多で小難しい情報の是非を自分で判断するのは不可能だ。すべての人間が、何の助けもなく自分自身の力で決定に至ることなどとうてい不可能なのだ。そこで、私たちは自発的にその必要性を納得したうえで、実際に個々人が扱えるようになるまで選択肢の幅が狭まるように、情報をふるいにかけてもらっている。私たちは、解決されなくてはならない問題は何か、何が重要な問題なのかと言うことに焦点をあててくれるよう、私が今述べている専門家たちに任せているのだ[xviii]」というエドワード・バーネイズの指摘する「大衆は権威者に盲目的に従うという原理、大衆は他者に習うという原理[xix]」がマスメディアによって完成させられるのである。
それはベルジェが言及した文字によるコミュニケーションの発信者と受信者の対等性とは大きく隔たったものであり、大衆が擬似的な合意を形成するように作用するテレビというメディアは政治とは別の新たな権力であると言える。「虚構の公益という旗印のもとで手の込んだ意見造型事業によって作りだされる事態に対する知的批判は、公的に演出される人物や擬人化へのムード的順応に席をゆずり、合意は知名度がよびおこす信用と一体化する。かつては公開性は、政治的支配を公共的議論の前へ引き出してくることを意味していたが、今では知名度は、無責任なひいきの反応の集約にすぎない。市民社会は、広報活動によって造形されるようになるにつれて、ふたたび封建主義的な相貌を帯びてくる[xx]」とハーバーマスは指摘し、「広報活動という形ですでに『政治的な』性格を帯びてきた大衆娯楽や宣伝の統合は、国家そのものをさえその典範に服従させ、(中略)さまざまな私企業がその顧客層に、彼らの消費決定に際して一種の国民意識をそれとなく吹きこむので、国家のほうもその国民を消費者とみなして彼らに呼びかけざるをえなくなる。こうして公権力も、知名度を求めて宣伝することになる[xxi]」と公共性の再封建化を論じている。政治と大衆の媒介としてのマスメディアが実質的に機能不全に陥ってしまっていると考えることができる。
3. マスメディアと公共性
ジェームズ・カランはメディアの民主主義的役割である国家を監視する番犬としての機能について論じる中で、伝統的な番犬機能は社会での闘争が、個人と国家の間や無知と啓蒙の間に存在しているという考え方に基づいており、国家以外の構造を通じても権力が発揮される点を考慮していないという点、すなわち自由市場がメディア所有を変化させ、メディアと政府の関係に変化を与え、メディアは支配的な経済的緒力が国家に対しての非公式の影響を行使するための単なる手段となると指摘している 。この指摘は「政治のメディア化」についての議論を推し進めるに際して重要なものである。つまりメディアを経済的な自由市場に委ねようとも、それは言論の自由市場とは結びつかず、経済的諸力によってメディアの自律性は影響を受けるということである。
カランは、寡占による市場の支配がメディアの多様性、受け手の選択、公衆によるコントロールを低下させ、メディア産業の高まりつつある資本集中化が支配的な経済力が特権的な地位を占め、その重要な社会的諸勢力には近づくことができないような影響領域を作り上げたと論じている。またニュースメディアにおける娯楽内容の高まりは、メディア消費の動機付けとしての政治的強化への願望を低下させ、娯楽の高まりの寡占の増大が、市場との関係におけるメディアの相対的な政治的自律性を高めたのだという。そして高度に官僚主義化されたメディアやジャーナリストが制限されたニュースソースに大きく依存していること、広告が受け手の経済的な価値に重みづけすることによってメディアを形作っており、広告主は受け手の要求の強さよりも視聴率の高さを評価することによって、テレビの在り方を歪めていると指摘している[xxii]。
つまり公共圏において公衆の自由な表現を促進し、合理性を高め、集合的決定を可能ならしめるために、幅広い情報を多様で対立的なニュースソースから提供し、争点が様々な観点から公的領域で交わされることを保障するメディアという存在についての伝統的な考え方は、現代のメディアには適用できないというのである。
カランは、1970年代初頭以降、アメリカのジャーナリストの自律性が低下してきたことが指摘されているのは、ジャーナリストが物事に批判的に関わらないために、社会秩序を暗黙のうちに受容し、権力者によって出された定義をあまりにも容易に受け取ることになっているからだとし、ジャーナリストの役割がメディアの民主主義的役割を実現するに十分なものではないと論じている[xxiii]。そのような事態を招く原因のひとつはジャーナリズムとコマーシャリズムの関係に見出すことができる。ピエール・ブルデューは、テレビには経済的な拘束が課せられており、企業によるメディアの所有のメカニズムを通じてあらゆる次元の検閲が作用し、市民が民主的な権利を行使するための適正な情報を排除していると指摘している[xxiv]。そして市場の要請に従属しつつあるジャーナリズム界のメカニズムがジャーナリストに及ぼしている支配力をブルデューは問題視している[xxv]。
マスメディアにとって、大きな経済的な価値を生むことができる娯楽番組を受け入れることによって、大衆は結果的には、公権力や経済的諸力が公共圏にもたらしている諸問題から隔離されることになる。それはハーバーマスが、大衆紙が「主として政治的動機から起こった広汎な大衆層の公衆参加を、商業的な方向へ機能変化させ」、「小説とルポルタージュの境界をなくし」、報道よりも娯楽の傾向を強めることで政治的性格を喪失し、さらに、新しいメディアである放送は、「受け手の反応を独特に切りつめ」て、「視聴者としての公衆を制圧」し、「みずから語り反論する機会をも奪ってしまう」と指摘している[xxvi]ようにマスメディアの公共性は間違いなく薄らいでいるのである。
政治を議論するに際してメディアに与えられた社会的な役割は、情報の提供である。それは大衆に対してだけでなく、政治的組織やアクターに対してもなされるもので、「『情報』の概念を、決断の基礎となる言明を含むものにまで拡大すれば、意志決定への参加が広く行きわたっている民主社会で理性的世論が形成される可能性は、たぶんにマス・メディアがどのように一般大衆の注意枠組みを形成するかにかかって[xxvii]」いる。
その注意枠組みは、人それぞれであるため、合意を形成するためにマスメディアは、情報を巧みに操作して如何なる注意枠組みにでも受け入れ可能なものに加工する。ブルデューは通常のテレビの使い方が避けがたい政治的危機を生み出していると指摘する。テレビは「見えるようにさせることができ、それが見えるようにさせているものを信じさせることができ、(中略)喚起というこの力は動員の効果を持ち、集団を存在させることができる」と論じている。つまり「テレビは、いつのまにか現実を作り出す手段にな」り、社会は「テレビが描き出すとおりになってしまう」と指摘している[xxviii]。つまり社会の現実に先行してテレビが描き出す現実が存在していると言える。その際に働いている力は、商業放送においては経済的諸力であり、それはジャーナリズムの理念と実践の間に埋め尽くせない溝を作り出し、それを内包したままジャーナリズムを支配している。そしてニュースメディアの動力である「ジャーナリズム界自身が市場の拘束に支配されていることによって、構造的な拘束が様々な界におよんでいる[xxix]」のである。そして政治の界も例外ではない。
本来政治は政治形態、政策、政治による政治ロジックで動いているものだが、政治が公共圏で論じられる際にニュースメディアが介在することによって、プロフェッショナリズムとコマーシャリズムとテクノロジーが構成するメディア・ロジックが進入する。そこで「政治のメディア化」が始まってゆく。ストロムバックは政治のメディア化の4段階を「情報源」、「メディアの自律性」、「メディアの実践」、「政治の実践」と設定し、「情報源」についてはその重要性が私的なものにとってなのかメディアにとってなのか、「メディアの自律性」では政治制度への依存か自律か、「メディアの実践」については政治のロジックとメディアのロジックのいずれに従うのか、「政治の実践」では政治的アクターや機関や制度が政治のロジックとメディアのロジックのいずれに導かれるのか、というマトリックスを提示して「政治のメディア化」の度合いを測定できると論じている[xxx]が、すでにメディア・ロジックはコマーシャリズムによって市場の拘束を受け、ジャーナリズム界も「内部における価値や原理に最も徹底的に忠実な人々に与えられる同輩による承認」と「金銭的な利益による承認」とが対立しており、後者のように「人気による評決という承認と市場の評決は切り離しえない」状況にある[xxxi]。そのようなジャーナリズム界の拘束が政治に及んでいるとすれば、「政治のメディア化」は、コマーシャリズムに方向づけられているのであり、その度合いは各段階においてかなり高いものだと考えることができる。
4.結語:「政治のメディア化」の適正化のための提言
以上、マスメディアの社会的役割や機能と効果、その現状に対する、様々な知見や批判から、大衆とメディアと政治を、コマーシャリズムの影響を前提に考察することによって「政治のメディア化」の予備的考察を行ってきた。この中で僅かながら解ってきたことは、メディアも政治も、経済や言論や娯楽の市場性の中で、コマーシャリズムが優先されることによって、言い方を変えるならば、コマーシャリズムによる拘束によって、それぞれが本来のロジックの自律性を失いつつあるのではないかということである。
政治がメディア・ロジックに従えば従うほど、メディア・ロジックを拘束するコマーシャリズムが政治を侵食するということになる。そうなると公共サービスや政策は商品化され、政治が発するメッセージはコマーシャル・メッセージ化する。政治はメディアを通じて、消費者である大衆に、耳あたりの良いメッセージばかりを発信し、結果として、ブルデューなどの批判からも分かるように、政治がメディア化することは、政治の本質を隠蔽する仕組が生成されうるということになる。それが浮き彫りにするのはマスメディアがもはや民主制度を維持し推進する力を失いつつあるのではないかという現実である。
最後に考えなければならないのは、いかに「政治のメディア化」を適正なものに導くかということである。それはすなわち「政治のメディア化」の過程でのコマーシャリズムによる拘束を最小化することである。政治と社会についての最も重要な情報源をメディアが構成し、政治的組織やアクターたちがニュースメディアを通じてコミュニケートしなければならないという理解が「政治のメディア化」の前提であるならば、「政治のメディア化」の過程でのコマーシャリズムによる方向づけの影響を最小化するためには、ニュースメディアのプロフェッショナリズムの働き、つまりメディアのロジックを構成するプロフェッショナリズムとコマーシャリズムの関係において、プロフェッショナリズムがコマーシャリズムの拘束からジャーナリズムを如何に解放できるかが最も重要な課題として浮かび上がる。そしてそのためにはメディアの、とりわけジャーナリズムにおける、プロフェッショナリズムの教育とその熟成が重要となってくる。メディア・ロジックがバランスの取れた状態に保たれてこそ、「政治のメディア化」は正常な過程を進んでゆくことができるのである。
以上
【注】 [i] Strömbäck,Jesper. Esser,Frank. Mediatization of Politics: Towards a Theoretical Framework (Mediatization of Politics: Understanding the Transformation of Western Democracies. Palgrave Macmillan 2014,P4 [ii] 同書P22-23 [iii] Strömbäck, Jesper. Four Phases of Mediataization:An Analysis of the Mediataization of Politics.(Press/Politics 13(3) Sage Publication 2008) [iv] Strömbäck, Esser. Mediatization of Politics: Towards a Theoretical Framework (Mediatization of Politics: Understanding the Transformation of Western Democracies. P19 [v] ハーバーマス、ユルゲン『公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究』(第2版) 細谷貞雄、山田正行訳 未来社 1994年.P255 [vi] ベルジェ、ルネ『テレフィッション―テレビメディアとその正体』江口真治訳 竹内書店新社1980年P14 [vii] 同書P13 [viii] ブーアスティン、ダニエル・J.『幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実』星野郁美、後藤和彦訳 創元新社 1964年.P66 [ix] ラザースフェルド、ポール・F.マートン、ロバート・K.「マス・コミュニケーション、大衆の趣味、組織的な社会行動」(シュラム、ウィルバー編『マス・コミュニケーション―マス・メディアの総合的研究』学習院大学社会学研究室訳 東京創元社 1968年)P278 [x] 同書P278 [xi] 同書P303 [xii] 同書P300 [xiii] ウィーバー、デービッド・H/グレーバー、ドリス・A/マコームズ、マックスウェル・E/エーヤル、カイム・H『マスコミが世論を決める―大統領選挙とメディアの議題設定機能』竹下俊郎訳 勁草書房 1981年.P3 [xiv] ラング、カート&グラディス・エンジェル「テレビ独自の現実再現とその効果・予備的研究」1953年(シュラム、ウィルバー編『マス・コミュニケーション―マス・メディアの総合的研究』学習院大学社会学研究室訳 東京創元社 1968年)P318-338 [xv] 同書P328 [xvi] リップマン、ウォルター『世論』掛川トミ子訳 岩波書店 1987年.上巻P18 [xvii] ブーアスティン『幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実』P35 [xviii] バーネイズ、エドワード『プロパガンダ』中田安彦訳 成甲書房 2010年.P34 [xix] 同書P124 [xx] ハーバーマス『公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究』(第2版)P263 [xxi] 同書P264 [xxii] 同書P150-155 [xxiii] 同書P160. この後カランは伝統的なメディアの情報的機能についての考え方の欠陥を指摘し、民主的なメディアのための複雑な要求を行っているが、本稿では議論の方向性がずれると考えたのでそこまでの言及はしない。 [xxiv] ブルデュー、ピエール『メディア批判』櫻本陽一訳 藤原書店 2000年.P21-26 [xxv] 同書P121 [xxvi] ハーバーマス『公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究』(第2版)P225-227 [xxvii] ラスウェル、ハロルド・D/カプラン、エイブラハム『権力と社会―政治研究の枠組』堀江湛、加藤秀治郎、永山博之訳 芦書房 2013年.P54 [xxviii] ブルデュー『メディア批判』P32-33 [xxix] 同書P121 [xxx] Strömbäck, Four Phases of Mediataization:An Analysis of the Mediataization of Politics. [xxxi] ブルデュー『メディア批判』P126
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