top of page
木製の本棚

Torch
Media Studies

コミュニケーションの道具であるメディアとは何か、それはいかにあるべきかは近代社会がメディアをその発展のツールとした時から議論されてきたテーマです。ここではさまざまなテーマを設定して、メディア研究を紹介してゆきます。

執筆者の写真Toshio Shirai

ベンジャミン・フランクリンと植民地時代のアメリカの報道(プレス)についての考察

1.はじめに

 本稿ではイングランド植民地時代に新聞が登場した直後のアメリカで印刷業から身を興し、アメリカの民主主義の立役者の一人となったベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)に焦点をあて、時代の潮流の中でフランクリンがいかにして独自の思想を育んだかについて報告する中で、彼が考えていた報道(プレス)の役割について考察を加えたい。


2.フランクリン以前の新聞

植民地時代のアメリカの新聞はボストンから始まった。

ベンジャミン・ハリス(Benjamin Harris)により1690年9月25日に1号のみ発行されたPublick Occurrences Both Forreign and Domestickが最初の新聞だと言われているが、不定期ながらも継続的に発行された最初の新聞は1704年にジョン・キャンベル(John Campbell)によって創刊されたBoston News- Letterである。イングランド本国で初の日刊紙Daily Courante がロンドンで創刊されたのが1702年だから、植民地の報道(プレス)の歴史は、イングランドにおける新聞の黎明期こそ経験していないが、近代的な新聞の歴史としてはイングランドとほぼ同時に始まったといえる。

Boston News- Letterはタイトル下にPublished by Authorityと大きく印刷されているが、発行前に行政機関の代理人によって承認されたことを証するものだった。経営的には御用新聞として行政機関からの収入で成り立っていた。

1692年にイングランド政府がアメリカ植民地における郵便制度を許可し、1700年からボストンの郵便局長の地位にあったジョン・キャンベルは、行政や商業についての手書きの記録、例えば会議や布告、裁判所における不服の申し立てや法的通知や訴訟、貨物船の空き状況や重要人物の到着情報など、をニュースレターの形で発信しようと考え、彼の新聞はボストン地域での印刷業の草分けであったバーソロミュー・グリーン(Bartholomew Green)によって印刷されることになった。キャンベルは1719年に郵便局長地位を譲った後も、Boston News- Letterの発行を続けるが、1722年に発行人の役目を同紙の印刷人であったグリーンに譲渡する。その後グリーンの息子であるジョン・ドレイパー(John Draper)に受け継がれ、ドレイパーは優秀な編集者としてBoston News- Letterをさらに成長させた。

1719年にキャンベルの後継として郵便局長になったウィリアム・ブルーカー(William Brooker)がBoston GazetteをBoston News-Letterに対抗させるべく週刊で創刊した。同紙は1741年まで歴代郵便局長に受け継がれた。


3.ベンジャミン・フランクリンの少年時代

1721年にはブルーカーのBoston Gazetteの印刷を請け負っていたジェームズ・フランクリン(James Franklin)が自らの新聞としてNew England Couranteを創刊した。行政による許可ではなく行政への批判を旨とする新聞が誕生した。彼は自由な報道(プレス)のための編集権の独立を追及し、改革推進的ジャーナリズムを発展させた。New England Couranteは5年しか続かなかったが、アメリカの新聞史において行政機関の承認なしで印刷するという原理を打ち立てた。

ジェームズ・フランクリンはすでに1717年にイングランドから印刷機と活字を持って帰り、印刷業を営んでいた。1718年、12歳のベンジャミン・フランクリンは兄であるジェームズの印刷所に年季奉公に入る。「活字を組み、印刷をし、それから読者に配布する[i]」事からフランクリンの印刷人そしてジャーナリストとしての人生が始まった。

印刷工としての技術を高めると共に、読書好きの少年は様々な知識を吸収していった。16歳の時には、New England Couranteに匿名で”Dogood Papers”というエッセイを連載し始めた。1711年にロンドンで日刊紙Spectatorを創刊したジョセフ・アディソン(Joseph Addison)のエッセイに習ったものであった。フランクリンはアディソンが書いた記事を繰り返し再現するという訓練を経て文章家としての腕を磨いただけでなく、思想を整理する方法を学んだ[ii]。さらには、国民が政治や宗教的立場の違いによって対立し、共通の価値観が失われた社会を「礼儀正しい(Polite)社会[iii]」に再構築するためには、向上心、教育、自助努力が必要だというAddisonの啓蒙的考え方をも吸収していただろう。

 フランクリンが少年時代を過ごしたボストンを中心としたニューイングランドには、1700年までにすでに120のタウンができていた。1713年以降さらに拡大し続け、移民第三世代や第三世代、新しい移民者は古い共同体から新しい土地へ移出し、新しいタウンを建設していった。元来マサチューセッツやコネチカットはピューリタン植民地として会衆派教会の自治の下に結束する共同体だったが、新世紀に入り自律と独立の精神が芽生え始めていた。学習意欲旺盛な少年フランクリンはそのような中で多感な少年期を過ごし、かつ兄の印刷所に出入りする、New England Couranteへの寄稿家たちとも親しく交流するようになる。だが”Dogood Papers”の匿名投稿の件を兄が知るところとなり、主人と奉公人と言う関係を重視する兄との関係が悪化する。癇癪持ちの兄にしばしば殴りつけられていたフランクリンは自伝のなかで「私はたぶん兄から過酷な暴力的な取り扱いを受けたことが一つの原因で、圧制に対する憎悪の念が心に刻みつけられ、終生忘れることができなくなったのだと思う[iv]」記している。

 もうひとつフランクリンの人格形成に反映されたであろう少年時代のエピソードは、彼が10歳の時のことである。フランクリンと仲間たちが釣りに興じる沼地の足場が良くないので、台場を作ろうと、その沼地のそばに家を新築するためにおいてあった石材を運び込み、一晩のうちに立派な台場を作った時のことである。石がなくなっていることに気がついた石工たちが騒ぎだし、フランクリンたちの仕業だとわかり、少年たちはそれぞれの父親に叱られた話が自伝では簡単に触れられている。ナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Howthorne)が、後に書いた子供向けの偉人伝の中で、自分のためだけでなく公共に役立つものとして台場を造ったのだから悪くないと主張するフランクリン少年を叱る父親の言葉を紹介している。父親は「お前は、石の持ち主ではなく公衆に対して大きな損害をもたらしたのだ」と少年の意に反する意見を言う。そして「悪は悪しか生み出さず、善き結果というものは善き手段によってのみ実現できるという偉大な真理を無視することが、ほとんどすべての公私を問わぬ人類の悲劇の原因なのだ[v]」と教えた。この逸話はその後のフランクリンの思想に大きな影響を与えたと考えてよいだろう。自伝の中で「人の役に立つのを喜ぶべきで、それを決して惜しむことがあってはならない」ということを「自分には重要だと思われる一つの主義」だと述べている[vi]。当然それは父親の教えによって補強された少年フランクリンの信念であろう。

兄ジェームズが発行するNew England Couranteはその後、ある政治批判が行政機関の反発を買い、発行人であるジェームズが禁固刑に処せられた。その間ベンジャミンが新聞を切り回し、当局への当てつけの記事を書いたりした。兄は釈放されたが、新聞の発行を禁じられた。そこでベンジャミンを発行人にして新聞の発行は続けられたが、ベンジャミンと兄の中は回復することもなく、とうとう1723年ベンジャミンは印刷所から出てゆくことになる。兄はボストン周辺の印刷所にベンジャミンの働き口が見つからないように手を回したために、ベンジャミンはボストンを飛び出し、ニューヨークを経由してフィラデルフィアに向かうことになる。

17歳になっていたベンジャミン・フランクリンはウィリアム・ブラッドフォード(William Bradfor)の紹介によってフィラデルフィアで印刷所を始めたばかりのサミュエル・キーマー(Samuel Keimer)という男の下で印刷工として働くことになる。翌年にはフランクリンに目をかけてくれていたペンシルヴェニア知事のウィリアム・キース(William Keith)が印刷業を開業するためにロンドンで機材の買い付けできるように手配してくれるという話に乗って、ロンドンに渡ったのだが、その話は全くの出鱈目で、フランクリンは帰りの船賃を稼ぐためにロンドンで印刷工として1年半にわたって働くことになる。

フランクリンはロンドンでの生活は仕事と芝居と読書が中心だったと自伝に書いているが、当然ロンドンの新聞は読んでいただろう。その頃のロンドンではフランクリンの考え方に一転機をもたらした『企業論』(An Essay upon Projects,1697年)の著者で英国ジャーナリズムの父といわれるダニエル・デフォー(Daniel Defoe)がDaily Couranteに執筆していたし、ジョナサン・スィフト(Jonathan Swift)が論壇で活躍していた。また若き日のフランクリンの手本となったSpectatorの ジョセフ・アディソンもいた。自伝には書かれていないがおそらくロンドンのコーヒーハウスでフランクリンは彼らの文章や考え方に触れていただろうし、イングランドのジャーナリズムからの刺激を受けていたに違いないと想像する。フランクリンは「非常に聡明な知己が何人かでき、その人たちと話し合って、たいそう得るところがあった。それに本はかなり沢山読んだ[vii]」とロンドンの生活を回顧している。

その知己の一人はアメリカで成功した商人であり、フランクリンが「敬愛する友人[viii]」と読んだトーマス・デナム(Thomas Denham)であった。デナムはフランクリンにアメリカで自分の事業を手伝い、将来的には商人として独立することを提案した。


4.印刷人ベンジャミン・フランクリンの成功

デナムの影響を受けて、ロンドンでの生活の終盤には「印刷の仕事に一生の ―と自分では思ったが― 別れを告げ[ix]」て商人になる決意をしてフランクリンは帰国する。1726年、20歳の秋である。そしてデナムとともにフィラデルフィアで、1727年にデナムが病死するまでともに暮らしながら仕事をした。その後フランクリンは義兄の忠告やキーマーからの要請で再びキーマーの印刷所に身を寄せるが、すぐに独立し、1728年にフィラデルフィアで印刷業を始めた。

デフォーの『企業論』を読むような少年であったフランクリンにとって、17世紀後半にウィリアム・ペンが指導するクエーカー教徒らが植民したペンシルヴェニア[1]の、強い経済的目的を持った入植者が多い土地柄が合っていたかもしれない。またペンシルヴェニア人の市民的意識が弱く、社会的結合への関心が薄く、個人間の競争や公的自己主張の意識が強いという気質[x]も、フランクリンが印刷業を営み、新聞を発行するのに適した環境であったかもしれない。いずれにせよ兄ジェームズと袂を分けてボストンを離れたことが、ベンジャミンに幸いした。

かつてはボストンが植民地最大の都市であったが、1740年代にはフィラデルフィアが植民地最大の都市になっていた。その後も都市化が急速に進行し、フィラデルフィアは1774年には3万人の人口を抱えていた。当時の経済は農産物が牽引していたが、港を所有する主要都市のひとつであるフィラデルフィアは造船業も栄え、ニューヨークと共に多くの商人が集中する都市になっていた。18世紀半ばにはフィラデルフィアを中心としたペンシルヴェニア、またデラウェアやニューヨーク、ニュージャージーなどの中部植民地は最も豊かな地域になる。このような環境が追い風となり、企業家としてのフランクリンは拡大する都市経済と共に成長することになった。

フランクリンがヒュー・メレディス(Hugh Meredith)とともにキーマーのもとを離れて組合を作り新しい印刷所を開業したとき、すでにフィラデルフィアにはキーマーの印刷所のほかにウィリアム・ブラッドフォードの息子アンドリュー・ブラッドフォード(Andrew Bradford)が所有する印刷所があり、アンドリュー・ブラッドフォードは1719年にフィラデルフィア初の新聞The American Weekly Mercuryを発行していた。それについては「下らぬ新聞で、経営は恐ろしくまずいし、さっぱり面白くなかった」が儲かっているのを見て、フランクリンは「もっとよい新聞を発行したら受けない心配はまずなかろうと[xi]」考えていた。その思いをうっかり一人の職人に話したことで、キーマーは先手を打って新聞発行計画を発表する。

新聞発行の計画を邪魔されたフランクリンは、ブラッドフォードのThe American Weekly Mercuryに「お節介屋」というエッセイを寄稿し、それが評判を呼び、キーマーの新聞The Universal Instructor in all Arts and Sciences: and Pennsylvania Gazetteは話題に上らなかった。キーマーの新聞は9ヶ月ほど続いたが、最大でも90人の購読者しか獲得できない状態で、安価でフランクリンに買収されることになった。

フランクリンは1729年9月25日-10月2日号から簡素化した名前のThe Pennsylvania Gazetteとして新聞を発行し始めた。フランクリンの故郷であるマサチューセッツの知事と州会との間の論争についてフランクリンが書いた批評が評判になり、購読者が増えていった。経営者であり、発行人であり、編集者であり、かつ筆の立つフランクリンの支援者が増え、また印刷技術の高さと正確さが評価され、ついにはブラッドフォードから州会御用印刷の仕事を奪い取る。また組合を共同で作ったメレディスと袂を別ち、経営はフランクリン一人の手に委ねられた。

The Pennsylvania Gazetteを買収した年に、フランクリンは『紙幣の性質と必要』という匿名のパンフレットを印刷して、世論を紙幣増発の要求を高めるべく導き、増発案は賛成多数で州会を通過した。その功績が認められて、紙幣の印刷を請負う。このあたりにジャーナリストとしてのフランクリンとビジネスマンとしてのフランクリンの両面がうまく合致した点が見られる。更には強力な人的ネットワークを使って隣接するニューカッスル(デラウェア植民地政府)の紙幣印刷や法文や議事録の印刷も手に入れる。また文房具店の経営にも乗り出していた。フランクリンの印刷所の躍進によってキーマーはついに印刷業を廃業する[2]。競争相手はブラッドフォードであったが、郵便局長であるブラッドフォードのほうがニュースを得る機会が多く、広告の受注も支配的な新聞流通を持っていたブラッドフォードの新聞に負けていた。しかもフランクリンの新聞の配達をブラッドフォードが禁じたため、新聞事業に関してフランクリンには不利な状況が続いたが、1732年には本を読むことがない人びとに暦と一緒に勤勉と節約が富に繋がるという教訓を説く「貧しいリチャードの暦」を出版し、それはその後25年ほど続くベストセラーになった。

更に1733年には育てた印刷工職人と組合契約を交し、印刷屋がないサウス・カロライナのチャールストンに職人を送り出し印刷所を共同経営するなど、事業家として着実に成功を収めていった。


5.ジャーナリストとしてのベンジャミン・フランクリン

1731年、25歳のフランクリンは、図書館を設立、また自らの道徳的な完成という目標を抱き「十三徳」を作った。少年時代のフランクリンはデフォーの『企業論』と共にマサチューセッツの初期入植者の精神的かつ政治的指導者であったコットン・マザー(Cotton Mather)の『善を為すの論』(1710年)を読んでいたことが、「十三徳」に繋がったのだろう。実現はしなかったが『徳に至る道』という書物の出版も考えていた。

ベストセラーとなった「貧しいリチャードの暦」もリテラシーの低い庶民層への啓蒙的な意味合いを持っていた。この暦の1758年用のものは「富に至る道」と呼ばれる文章で、徳を積み上げることに関する古今東西の智慧を集めて、一つの筋の通った話に創ったものだが、アメリカの各新聞に転載されたばかりでなくイギリスでは家庭の壁に貼れるようなポスターになり、フランスでは翻訳されて貧乏な教区民や借地人に与えられた。

フランクリンは、新聞の役割として「教訓を伝える一つの手段[xii]」だと述べている。The Pennsylvania GazetteにもSpectatorや他の道学者らの徳に関する文章の抜粋を載せたり、時には自作の教訓を載せたりした。また経営方針として「誹謗や人身攻撃にわたることは、一切これを避ける[xiii]」と明言している。誹謗中傷を載せてくれという筆者に限って、新聞は自由な発言の場であり、料金を支払う者は誰でも掲載できるものだと言ってくるが、それに対してフランクリンは、パンフレットとして文章を刷ることは何部でも請け負うが、自分で配ってくれと諭すと言う。なぜなら講読者には有益かつ講読者の興味ある記事を提供する約束があり、個人的な言い争いを乗せることは購読者の利益に反するからだと述べている。フランクリン自身も新聞での論説とパンフレットでの意見公告を使い分けている。

このような信念は、おそらくフランクリンが新聞発行人としての初期にあたる1731年にはすでにフランクリンの中で確立されていた。

ある船の船長から受けた広告に聖職者を乗船させないという注意書きがあり、それが聖職者たちや町の重鎮の反発を買い、新聞の不買運動や印刷以来の停止に繋がりかねない騒ぎになったときにフランクリンは『印刷人の弁明』(Apology for Printers)という小論を新聞に掲載した。その中に見出せるフランクリンの信念は、まず印刷人の公正な立場である。異なる意見のどちらの立場に対しても等しく機会を提供することを表明している。フランクリンは「真実と誤謬は公正に扱われた時、前者は常に後者に打ち勝つものだと言うことを、その信念において教育されている[xiv]」と言う。つぎに客観性である。印刷することの善し悪しを判じて、選別して印刷すると結果的には印刷人の意見となると考えていた。またフランクリンは印刷の教育的な役割を指摘している。そして社会的な責任として、「悪徳を黙認し不道徳を助長するようないかなることもその印刷を常に拒絶している。また私は誰であろうと本当に傷つけるかもしれないようなことの印刷を、いかに懇願されようとも、多額の支払いで誘惑されようとも、その拒絶によって私を雇おうとする人たちの反感をいくら買おうとも、いつも拒否している[xv]」という宣言を行っている。また1735年には「町を火災より守ることについて」という論説を新聞に寄稿し、世論を動かして翌年には消防組合を発足させ、報道(プレス)が世論を動かすことでより良い政治を実現させることができることを示して見せた。 これらの信念は、その後のアメリカの報道(プレス)の倫理や責任に通じるものであると言えるだろう。


6.結語

フランクリンは『印刷人の弁明』を「私は私の仕事を続けてゆく。私は私の印刷機を燃やすことも活字を溶かすこともしない[xvi]」と結んでいる。若き印刷人のプレス(報道(プレス))に対する強い思いをそこに感じることができる。

その後ベンジャミン・フランクリンは、ペンシルヴェニア州会書記、フィラデルフィア郵便局長などを経て、大学設立や義勇軍創設に奔走し、政治の世界に深く関わって行くのだが、生涯一印刷人であることを忘れなかった。


The Body of B. Franklin, Printer

(like the Cover of an old Book, Its Contents torn out,

And stript of its Lettering and Gilding,)

Lies here, Food for Worms. But the Work shall not be wholly lost;

For it will, as he believ'd, appear once more,

In a new & more perfect Edition,

Corrected and amended By the Author.[xvii]


 戯れに書かれたものかもしれないが、ベンジャミン・フランクリンが1728年に書いていた自らの墓碑銘に印刷人としての誇りを見ることができる。

 フランクリンの発明を含む様々な分野にわたる業績は、彼の自伝に書かれている様々なエピソードからも分かるように、彼は極めて科学的な分析を得意とし、経験から課題を抽出して、本題提起する力によって成し遂げられた。そのような資質こそ報道(プレス)に求められている基本的な資質である、印刷人ベンジャミン・フランクリンはが天性のジャーナリストだったと言うことを窺い知ることができる。

以上







【参考文献】

-フランクリン、ベンジャミン『フランクリン自伝』 松本慎一、西川正身訳 1957年岩波書店

-Franklin, Benjamin. Apology for Printers: The Pennsylvania Gazette, 5/27/1731.

-グリーン、ジャック.J 『幸福の追求―イギリス領植民地期アメリカの社会史』大森雄太郎訳 慶應義塾大学出版会 2013年(Green, Jack P. Pursuits of Happiness: The Social Development of Early Modern British Colonies, The University of North Carolina, 1988)

-Hawthorne, Nathaniel. Biographical stories ,ChapterⅧ,1842.

-小林恭子『英国メディア史』中央公論新社 2011年

-Thomas,Isaiah. The History of Printing in America : with a Biography of Printers and an Account of Newspapers(Vol.1) : Burt Franklin, 1874.( Internet Archive)

-Tuchida, Motoko. Making of the Americans: Journalism in the Politically Organized Society (『アメリカ・カナダ研究』No.4 上智大学アメリカ・カナダ研究所1990年)

-内野茂樹「ジャーナリスト・ベンジャミン・フランクリンの地位 : アメリカ新聞史におけるフランクリン家の地位(二)」(『新聞学評論』4 日本新聞学会1955年4月) 

-内野茂樹「米國革命期階級構成におけるプリンタアの地位 : 愛國派の場合」(『新聞学評論』5 日本新聞学会1956年4月)



【注】

[1] 1681年2月28日、チャールズ2世がウィリアム・ペン(William Pen)の父ウィリアム・ペン提督から借りていた16,000ポンドの借金のかたにウィリアム・ペンにアメリカ植民地の土地の勅許を与えた。これは史上でも最大級の特定個人に対する勅許だった。ペンは郡政委員会と信教の自由という2つの革新的な性格を持つ政府を樹立し、これは新世界の多くの国で真似されることになった。(出典:ウィキペディア) [2] その後キーマ-はバルバドスで印刷業を開業し、1731年にカリブ海諸島の植民地初の新聞The Barbadoes Gazetteを創刊する。

[i] フランクリン、ベンジャミン『フランクリン自伝』 松本慎一、西川正身訳 1957年岩波書店 P35 [ii] 同書 P29 [iii] 小林恭子『英国メディア史』中央公論新社 2011年 P64 [iv] フランクリン、ベンジャミン『フランクリン自伝』 松本慎一、西川正身訳 1957年岩波書店 P37 [v] Hawthorne, Nathaniel. Biographical stories ,ChapterⅧ,1842.( The Literature Network) [vi] フランクリン、ベンジャミン『フランクリン自伝』 松本慎一、西川正身訳 1957年岩波書店 P217 [vii] 同書 P95 [viii] 同書 P92 [ix] 同書 P94 [x] グリーン、ジャック.J 『幸福の追求―イギリス領植民地期アメリカの社会史』大森雄太郎訳 慶應義塾大学出版会 2013年 P68、P72 [xi] 同書 P117 [xii] 同書 P180 [xiii] 同書 P181 [xiv] Franklin, Benjamin. Apology for Printers: The Pennsylvania Gazette, 5/27/1731. [xv] Ibid. [xvi] Ibid. [xvii] Thomas,Isaiah. The History of Printing in America : with a Biography of Printers and an Account of Newspapers(Vol.1) : Burt Franklin, 1874. P239

閲覧数:0回0件のコメント

最新記事

すべて表示

政治のメディア化(Mediatization)に関する予備的考察~マスメディアの視点から~

1.はじめに 20世紀末から今世紀にかけて西欧を中心に論議され始めた政治の「メディア化」(メディアタイゼーション/Mediatization)は、ニュースメディアと政治との関わりにおける概念である。 フランク・エッサーとイェスパー・ストロムバックは「メディア化」は「確立した...

Comments


bottom of page