1.はじめに
本論では、バービー・ゼライザー(Barbie Zelizer)が『ジャーナリズムとアカデミー』(Journalism and the Academy[i])において示したジャーナリストとジャーナリストの教育、そしてジャーナリズムの研究が織りなす不協和音の現状報告を踏まえて、ジャーナリストとアカデミーについて考察する。
ゼライザーは、ジャーナリズムに関する実践(ジャーナリスト)と学問(研究者)と教育(教育者)がそれぞれの領域からジャーナリズムを問うために不一致と矛盾が生じ、彼らがそれぞれの解釈共同体の中に閉じこもることで共生的な融合に至っていない状況をクリティカルに分析しながら、その解決に向けての提言を試みている。
実践と学問と教育というジャーナリズムに関わる解釈共同体のそれぞれが独自の定義でジャーナリズムを捉えている。すなわち「ジャーナリズムとは何か」という問いに対するそれぞれの答えがあるということである。
だが答えが必ずしも一つである必要はない。必要なのはそれぞれの答えが相互的に機能すること、すなわちジャーナリズムの実践がその教育や研究に作用し、ジャーナリズムの教育がジャーナリズムの実践と研究を強化し、ジャーナリズムの研究がそれらを常に内包しながらそれぞれに正のフィードバックをすることだと考える。
本論では、ジャーナリズムに関して実践と教育と研究が相克し続け、ジャーナリズムとアカデミーがジャーナリズムに関しての焦点を合成できないでいることについての考察を行う。ジャーナリズム研究のひとつとして、ジャーナリズムの実践と教育と研究の各フィールドへのフィードバックとなることを目指したい。
本論はまずジャーナリズムの実践から教育の必要が議論されてアカデミーの中にジャーナリズムの教育と研究の部門ができてゆく過程を顧みることで、その段階で既にジャーナリズムの実践、教育、研究というそれぞれの解釈共同体ごとの問題意識の違いが生じていたことを確認する。そして今日のメディア機関においてジャーナリズムが相対的に矮小化しており、ジャーナリストの教育に関して未だにその必要性の議論の入口に立ったままである点を指摘し、その要因としてジャーナリズムが内包する矛盾点を、ジャーナリズムの発展の過程とその現在の姿の中に浮かび上がらせたい。
2.ジャーナリズムの実践から教育、研究が生じた過程
放送局の新入社員が採用後最初に受ける辞令は「見習いとして採用する」となっている。放送局では「見習い」の期間は最初の配属までの研修期間で、研修期間終了後の正式配属の段階で「社員として」配属部署名が書かれた辞令を受ける。新聞系の放送局は新聞社の制度や用語が伝統的に残っており、このような「見習い」は新聞社に起源すると考えられる。
「見習い」と言う語をインターネットで検索すると「職人」の仕事が出てくる。「職人」は「見習い」を経て一人前に育つ。新聞社が印刷機に依存していた時代には印刷職人は「見習い」から採用されていた。記者もまた同様に「見習い」から始まるものだった。
放送局に入社する新入社員のほとんどは、メディアやジャーナリズムについて専門的に学んだ人間はいない。2013年度版「日本のジャーナリスト調査」でも、「ジャーナリズムに関する専門教育を受けたことはない」という回答者は81.6%であった[ii]。新入社員たちは放送局の仕事を一から覚えてゆく過程でメディアについてやジャーナリズムについてを学ぶことになる。それが記者の仕事であろうと制作であろうと、編成や営業であろうと、宣伝や事業であろうと、管理部門であろうと、新入社員は仕事をOJT(On-the-Job-Training)で学ぶことになる。OJTは実践を通じての教育であり、理論は後付されるが、その多くは先人たちの経験則の積み上げによるコモン・ローに統合されてゆく。
これらの部門は一般職部門で、技術職とアナウンサー職は例外的に一般職とは別に採用されている。彼らもOJTによって社内教育を受けるが、技術職の場合は専門的な知識が大学教育に依存しているが、それはジャーナリズムの教育ではない。アナウンサー職の場合は、その技術やプレゼンテーションは大学教育に頼るものではなく、大学在学中に放送局が経営するアナウンサー学校へ通うなどして獲得されたものである。アナウンサー学校では、アナウンサーとして放送局を志望する学生向けに講習を行っているが、そのカリキュラムにはメディア論もコミュニケーション論もない。
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ジョセフ・ピュリツアー(Joseph Pulitzer:1847-1911年)が1903年にジャーナリスト教育を目的としてコロンビア大学へ200万ドル寄付するとNew York Worldで発表したとき、彼は新聞社の記者や営業や広告部門の人間をジャーナリストの教育の対象にはしていなかった。ピュリツアーは「パブリック・サービスを目的として新聞を編集するプロフェッショナルズのことを、プロフェッションとして定義づけ[iii]」ていた。
伝統的にニューズを取材する記者のほとんどはフリーライターで新聞社と契約し、その給与は低いものだった。記者たちは、キャリアを積み上げる中で好条件の契約を求めて各地の新聞社を渡り歩いていた。また経営者たちもOJTを経て現場を経験した記者を雇用した。ピュリツアーがあえて記者を教育の対象から外したのはそのためかもしれない。
記者たちが小都市から中都市を経て大都市のより大きな伝統のあるメディア機関に好条件の職を求めて移動するという道程は現在でもアメリカでは一般的なものである。メディア産業のこのようなヒエラルキーを内包した制度や慣習がジャーナリスト教育を阻害していると考えることも出来る。
ジャーナリズム教育について考える場合、ジャーナリズムのどこまでをプロフェッションと規定するかは重要な問題である。1890年代のイエロージャーナリズムによって「不正確な情報や不確かな表現、大げさな暴力事件報道や性犯罪報道が大量に撒き散らされることに対する批判の声が高[iv]」まっていたことから「利益追求とパブリック・サービスという相反する目的を明確化すべく編集者団体を経営者団体から分離し、さらに個人の感情と冷静な判断を切り離すためにプロフェッション教育を確立・制度化[v]」しようとしたのである。
ピュリツアーは編集者を想定したが、ジャーナリズムのプロフェッション化が「ジャーナリズムの倫理的問題を解決しようとする意図から生まれた[vi]」ものであるなら、本来は記者も含めて教育の対象と考える必要があったが、まずは取材源の明記や、ニュース(News)と論説(Views)の分離のためのレイアウト、署名論説など編集者が持つべきプロフェッションとしての共通技法が「社をこえて、研究・教育の場で[vii]」開発されていった。このときに記者をプロフェッションと見做さなかったことが、ジャーナリズム教育の問題を複雑化させたと考えられる。
ピュリツアーは「大学教育は、ジャーナリズムを一つのプロフェッションに高めることに役立つだけでなく、教育を通じてジャーナリズムはデモクラシーにおいてその役割を適切に果たすことができる、と考え」てコロンビア大学でのジャーナリズム学部の創設を訴えたが、当初は新聞界も大学界も否定的な見解を出していた。それに対しピュリツアーは翌1904年North American Reviewの5月号に『ジャーナリズム専門学部(The College of Journalism)』と題した論文を掲載して、ジャーナリスト教育の必要性に対する批判に答えてゆく事で教育の重要性を唱えた。ピュリツアーの最初の反論は、ジャーナリストは作られるのではなく生まれるものだという批評家の意見に対して行われている。ピュリツアーは教育が優れたジャーナリスト(編集者)を作ると主張した。
ピュリツアーの思いに応えるように1904年にイリノイ大学がプロフェッション教育を目指す2年制のジャーナリズムコースを開設する。1912年にはウィスコンシン大学がジャーナリズム学科を創設するが、その理想は「ジャーナリズムや社会の条件を改善するジャーナリズム教育[viii]」で、同大学から多くの教育者や研究者が輩出された。同年、ピュリツアーの死の翌年に彼の念願だったコロンビア大学でのジャーナリズム学部が開設された。こうしてジャーナリズムというプロフェッションの教育のための課程が普及してゆき、アメリカでの大学におけるジャーナリズム教育は1930、40年代に確固たる地位を占めるようになる。だがプロフェッションとしてのジャーナリストの定義は明確にさらないままであり、ジャーナリストの多くは1960年代までジャーナリストの大学教育とは縁遠い労働者階級の出身であった[ix]。
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1896年にミズーリ州新聞協会によるジャーナリズム講座創設の決議を受けて、1898年にミズーリ大学に設置されただけで活動していなかったジャーナリズム講座を、Columbia Heraldの大株主で社長だったウォルター・ウィリアムズ(Walter Williams:1864-1935年)が尽力し、1908年にはミズーリ州議会から認可を取り付け、ジャーナリズム学部が設立された。ウィリアムズはジャーナリズム学部の初代学部長になる。ミズーリ大学では「ジャーナリズムのプロフェッションため学生たちを教育すること」を目的として、「ジャーナリズムの原理と歴史、ジャーナリズム倫理、新聞経営、ニューズの取材、放送、論説記事、通信、新聞法学、名誉毀損法、イラスト、比較ジャーナリズムそして新聞制作」のカリキュラムが用意した。これらは後の大学でのジャーナリズム教育のモデルとされたが、ウィリアムズが意図したところは「プロフェッショナルなコースとアカデミックなそれとの連携にあり、決して単なるスキル重視のモデルではなかった[x]」という点を見逃してはならない。ここにジャーナリズムのアカデミックな研究という目的と、大学でのプロフェッション養成としてのジャーナリズム教育という目的の別ち難い対立がある。
後にアメリカを代表する社会学者となるロバート・E・パーク(Robert Ezra Park:1864-1944年)は、ミシガン大学を卒業後にフリーライターとしてミネアポリス、デトロイト、デンバー、ニューヨーク、デトロイト、シカゴと渡り歩き、新聞記者としてのキャリアを積み上げ、34歳になってハーバード大学の大学院に進学する。その後研究者として研鑽し、50歳でシカゴ大学に移り、ウィルバー・シュラム(Wilbur Lang Schramm:1907-1987年)やハロルド・ラスウェル((Harold Dwight Lasswell:1902-1978年)、ポール・ラザースフェルト(Paul Felix Lazarsfeld:1901-1976年)ら、アメリカにおけるコミュニケーション学の主流なる学者を育てた。パークは記者の経験をカリキュラム化してジャーナリスト育成教育を目指すことはせず、ジャーナリズムをコミュニケーション学の一部に位置づけることで、ジャーナリズムを研究の対象にした。ジャーナリズムの教育と研究は違う道を歩みだすことになる。
その結果として今日のアメリカのジャーナリズム教育は、マイケル・シャドソン[xi]が分析するような三つのグループに分けられることになる。第一にレトリック(修辞学)または「スピーチ・コミュニケーション」の習得によって、学生に批判的思考力をつけさせることを使命とするグループ。第二は、ジャーナリズム関係の職業に就きたい学生のための実践的な教育を目指すグループで、この分野ではジャーナリスト経験者が教えているが、それらの教員たちは、学問的な研究に取り組もうとする人たちと、ジャーナリズムの現場を重要視する経験主義的で、アカデミズムに批判的な人たちに分かれている。第三に、マス・コミュニケーション研究で、マス・コミュニケーション過程の社会科学的研究を使命とし、教育や実用性よりも研究を重視している。その結果「アメリカの高等教育機関に教育・研究としてのコミュニケーション関連科目やコースは存在するが、その形態は一定していない」ということになる。それは突き詰めれば、実践なのか教育なのか研究なのかという問題に至る。
ゼライザーが「ジャーナリストはジャーナリズム研究者や教育者がジャーナリストの恥ずべきことの数々を吹聴するのはお門違いだと言い、ジャーナリズム学者はジャーナリストやジャーナリズム教育者が理論的に不十分だと言い、ジャーナリズム教育者は、ジャーナリストは現実を回避しており、ジャーナリズム研究者は非現実的だと言う。競い合う主張の騒音の中で誰がもっとも良く聞かれているかに各集団が執着するにつれて、ジャーナリズムについての関心はしばしば脇へ追いやられてしまっている[xii]」と言っているような三つ巴の終わりのないループは、ジャーナリズムの教育が必要だと考えられた初期の段階ですでに始まっていたことが分かる。
3.メディア機関におけるジャーナリズムの矮小化の問題
放送局に採用される人間の中でジャーナリズムとは何かに明快に答えることのできる人間は少ない。経験をつんだ放送局員であってもジャーナリズムをコモン・ローと経験論以外で語ることができない場合が多いし、それだけでは語り得ないジャーナリズムを語るべきエクイティとなる原理や理論を理解している者は少ない。それはジャーナリズムの研究とジャーナリズムの教育、ジャーナリスト育成教育の足並みが揃っておらす、実践においてOJTに依存してきた弊害であるといえる。
ちょうど中世の商人や吟遊詩人が人々にニューズをもたらしたように、広告と娯楽の提供の合間にニューズを挿入する形態を取って久しい放送メディアは、ジャーナリズムにではなくエンターテインメントとビジネスにその基盤が移ってしまっている。放送局の社員はジャーナリズムについてよりも次世代のビジネスモデル、メディアのあり方を論じている。ジャーナリズムについて真剣に議論する時代ではなくなっていると言ってもいいだろう。ビジネスが優先されがちな今日の放送メディアにおいてはジャーナリズムが相対的に矮小化している。このような矮小化現象にジャーナリズム教育は深く関わっている。
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日本マス・コミュニケーション学会が2003年に発表した「ジャーナリズムおよびマス・コミュニケーション教育に関する調査報告書」では、メディアの現場が大学教育に最も期待するのは、「バランスのとれた思考」、「コミュニケーション能力」、「大学での幅広い経験」、「幅広い一般知識」であり、大学の教育の中心である「マスコミ理論」、「ジャーナリズム理論」は期待されていないことが示された。またこの調査で示された重要な点は、ジャーナリズム教育とジャーナリスト養成教育が明確に区別されていない点であった[xiii]。
ジャーナリズムの学問としての教育は大学の範疇に入るが、実践者としてのジャーナリスト育成教育は採用後に嘗ての印刷職人と同様にOJTによって行うことができる。それに備える最低限のこと―「バランスのとれた思考」、「コミュニケーション能力」、「大学での幅広い経験」、「幅広い一般知識」―を大学で身につけていてくれればいい、というのがマスコミ機関の本音である。それが放送メディアにおけるジャーナリズムの矮小化を促しているといえる。
NHK放送文化研究所の『放送研究と調査』2011年5月号での「ジャーナリスト教育再考」で、元関東学院大学教授の松田浩は「記者教育と言えば,『NHKの』『朝日の』『日経の』といった組織としてのジャーナリスト教育が延々と行われてきました。企業や組織が第一の記者教育が、日本のマス・メディアが罹っている病根だと思います。こうした組織、企業論理を超えたところにジャーナリズムがあるわけですから、ここを変える意識、それも職場から変えていくことが重要です」とメディア機関のジャーナリズムが矮小化している要因を言い当てている。つまり本来は企業の枠や業態やメディアの枠を越えてあるべき原理や理論よりも、企業内のコモン・ローを優先するOJTの推進がメディア機関のジャーナリズムを矮小化を促進しているわけだ。
「ジャーナリスト教育再考」は2010年の3月に起ったNHKスポーツ部の記者が相撲部屋の家宅捜索の情報を捜査対象の親方に知らせた事件の検証のひとつとして書かれたものだが、それについてNHKのOBで作家である手嶋龍一・慶応義塾大学大学院教授は「若いジャーナリストが大きく伸びる要素を阻んでいるものには、2つあります。ひとつは自分の取材範囲に固執するあまり、受け持ち外の出来ごとに鈍感になってしまうことです。もうひとつは、記者クラブ制度の中で,取材対象との距離の取り方が曖昧になり、『肉薄』がいつのまにか『癒着』に変わっていることに記者自身が気づかなくなっている」とジャーナリズムが矮小化していることを指摘している。
そのような傾向は日本だけのものではない。ゼライザーは『ジャーナリズムとアカデミー』の中で、アメリカのジュディス・ミラーやジャイソン・ブレアーを巻き込んだ事件、英国でのギリガン事件などジャーナリストを巻き込む倫理スキャンダルの氾濫を指摘している。これらのジャーナリズムの倫理を侵犯するような事件が起るということは、ジャーナリズムのプロフェッション化がジャーナリズムの倫理的問題を解決しようとする意図から生まれ、そのためにはジャーナリズム教育が必要だと考えられた19世紀末の状況からほとんど変化していないことを示唆している。
ジャーナリズムの矮小化は、2013年度版「日本のジャーナリスト調査」にも見て取ることができる。例えば記者として「ジャーナリズムに関する団体・活動に参加している」者は3.6%であるのに対し、参加していないものは91%であった。これはジャーナリズムに対する関心やコミットメントが薄らいでいることを示すものだ。
また「現在のジャーナリズムの問題点」としてジャーナリストたちが指摘した項目で30%を越えるものを見てみると、「画一的・横並び報道が多い」(64%)、「報道が全体的に一過性である」(60.4%)、「発表もの多すぎる」(52.7%)、「掘り下げた報道が少なく表面的」(44.3%)、「一般大衆のニーズに迎合している」(33.4%)、「センセーショナリズムの傾向が強い」(30.4%)と、報道の浅薄さと日和見的な状況が指摘されている。これらをメディア機関でのジャーナリズムの矮小化現象と捉えることができる。それに対して「今後の報道の充実のために必要なこと」として挙げられているのが「記者教育の充実」で、75.8%と群を抜いている。ジャーナリストたちは、ジャーナリズムの矮小化はジャーナリスト教育の不足というところに原因があるという認識を示している。「OJTによる記者教育のあり方が検討されている現在、ジャーナリズムやメディアの研究を行っている大学などの教育機関が、現場と協力しながら今後の記者教育、ジャーナリスト教育、ジャーナリズム教育のあり方を模索する」必要性があると指摘されている[xiv]。また「職場で自由な意見交換ができる雰囲気」が必要だとする回答は57.2%と高く、メディア機関においては、ジャーナリズムといえども企業としてのヒエラルキーが優先的であることを示唆している。これはメディア機関において、ビジネスがジャーナリズムを凌いでいるという実態を支持するデータであると言える。
4.ジャーナリズムを発展させた両輪:資本と言論
15世紀のヨーロッパでは、噂話、ゴシップなどの下世話な関心事、人魚の目撃譚などの奇想天外な話や猟奇殺人などのセンセーショナルな出来事のように、人の興味を掻き立てるニューズが行商人や旅芸人などによって伝えられていた。その点で行商人、旅芸人は初期のジャーナリストであり、ジャーナリズムは、人が新しい出来事であるニューズに関心を持つということに起源する。この歴史はまた、現在の放送メディアが、ジャーナリズムをエンターテインメントやビジネスとともにパッケージ化していることの起源を示唆している。
16世紀に入り、各地の情報や法令や噂話などを纏めた、近代的な新聞の元祖となるニュースレターが作られ、それがヨーロッパでは整備された郵便制度によって流通するようになる。特に16世紀半ば以降、絶対君主制国家が推進した重商主義政策の中で台頭した商人たちにとって、ヴェネチアで発行されるGazetteのように、商業や金融、政治情報を知らせるニュースレターは貴重な情報源となった。
最初のイングランドの新聞は1620年ごろアムステルダムで印刷されたものだった。その内容はオランダの新聞の記事を英訳したものだった。やがてそれを真似てイングランド国内でも新聞の印刷が始まるが、国内のニューズの報道が禁じられていたために、オランダやドイツのニューズを英訳して編集した内容がパンフレット形式で発行されていた。
17世紀の清教徒革命、ホイッグ党とトーリー党の2大政党の時代、そして名誉革命を通じて新聞の存在感は高まってゆく。政治ニューズを扱う印刷物が次々と対立する意見を発信してゆく。1640年代には100以上の週刊新聞が創刊されては消えていった。それまでは海外のニューズを伝えていただけだったニューズ本が国内の政治に焦点を当て、同派的な解説をつけることで世論形成を図るようになって行く。ニューズを知らせる新聞とは違う新たなジャーナリズムが生じた。すなわち「ニューズ(News)」 ではなく「論説(Views)」述べるジャーナリズムである。1640年代から50年代にかけてはそれらの新聞によって政治と国民の距離が近づいた。17世紀のイングランドのジャーナリズムは多様な政治的意見を議論するものであり、やがてそれがイングランドの新聞の伝統になってゆき、イングランドの読者にとって新聞を読むことは一方の意見を読むことに等しいものとなる。ここに至ってジャーナリズムは、発展のための一つの車輪である言論、すなわち民主主義を動力とする車輪を獲得した。
そのような中で1641年に星室庁が廃止され、1695年には印刷・出版物免許法が失効する。1690年頃にはニューズを書いたり編集したりする職業にある人を「ジャーナリスト」と呼び始めた。またその頃には新聞が広告と購読料の収入でビジネスとして成り立ちはじめる。ジャーナリズムは資本主義を動力とするもう一つの車輪を持つことになる。
植民地時代のアメリカでも同じように新聞は発展して行く。1704年にボストンの郵便局長であるジョン・キャンベル(John Campbell:1653-1728年)によってBoston News- Letterが創刊された。1719年にはウィリアム・ブルーカー(William Brooker)がBoston Gazetteを創刊し、1721年にはジェームズ・フランクリン(James Franklin:1697–1735)がNew England Couranteを創刊し、新聞の時代が訪れる。その当時の新聞はBoston News-letterのように行政の御用新聞として経営的に行政機関からの収入で維持されているか、New England Courantのように独立系で自営の印刷業や郵便局の副業として購読料と広告収入に依存して営まれていた。この段階ではジャーナリズムと資本や言論との結びつきはそんなに強いものではなかったが、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin:1706-1790年)がジャーナリズムと資本と言論の結びつきを推進し、確立する。
フランクリンはフィラデルフィアで1729年にThe Pennsylvania Gazetteを発行する。すでにフィラデルフィアにはアンドリュー・ブラッドフォード(Andrew Bradford:1686-1742)が1719年に創刊したThe American Weekly Mercuryがあり、当初は新聞事業に苦労したフランクリンだったが、『紙幣の性質と必要』という匿名のパンフレットを印刷して、紙幣増発の要求を高めるべく世論を導いた結果、増発案は賛成多数で州会を通過し、その功績によって紙幣の印刷を請負うなどして印刷業を拡大してゆく。ジャーナリストとしてのフランクリンとビジネスマンとしてのフランクリンの両面がうまく合致して作用した事例である。フランクリンのジャーナリズムにおいては資本と言論がすでに両輪を形成し始めていた。
フランクリンの競争相手のブラッドフォードはフィラデルフィアの郵便局長であったためにニューズを得る機会が多く、広告の受注も支配的な新聞流通を持っていた。しかもフランクリンの新聞の配達をブラッドフォードが禁じたため、新聞事業に関してフランクリンには不利な状況が続いていた。だが1736年にペンシルヴェニア植民地議会の書記に任命さたことで、議員たちとの関わりを持つことができ、やがて議会御用達の印刷所に指定される。そして1737年ついにブラッドフォードが解任されフランクリンが郵便局長になることで、フィラデルフィアの新聞事業を大きく発展させる。
フランクリンは1753年には郵政長官代理、1775年にはアメリカ郵政長官に就く。当時の郵便局は情報流通の中心的な役割を果たしており、フランクリンは長らくアメリカ植民地における情報の中枢を掌握することになる。「そして何より、ばらばらだった植民地が、お互いを意識し合うようにするのに力を貸した[xv]」のである。
フランクリンは育てた職人たちを植民地の各地に派遣し、共同経営の形で印刷所を経営し、新聞を発行してゆき、北はニューポート、南は西インド諸島まで印刷帝国を拡張する。1755年には北米の15の新聞のうちの8つがフランクリンとパートナーシップを結ぶか、なんらかの援助を受けていた。また残りの7つもなんらかの交流があったとされる。「この事実を考慮すれば、当時いかに彼の印刷ネットワークが植民地において情報収集力、あるいは情報発信力を持っており、彼の考え方、あるいは教えが広く購読者に広まっていたかが容易に理解できる[xvi]」し、「印刷出版界を再構築することによって,一気に印刷出版界のネットワークのみならず情報通信ネットワークを広げ、結果的に『自伝』、つまり彼の理想とする教義の普及に成功している。それは植民地におけるアメリカン・コミュニティの意識の誕生の時期とも見事に重なって[xvii]」いるのが分かる。言論によって民主主義を目指すアメリカというナショナルな意識の熟成し、資本主義によって印刷帝国を拡張したフランクリンは、アメリカのジャーナリズムに資本主義と民主主義を両輪に授けたといえる。
5.ジャーナリズムが内包する矛盾
ジャーナリズムは常に資本主義と民主主義を動力とする両輪によって発展してきた。
資本主義という車輪が強調されてバランスを崩したときにイエロージャーナリズムが生じる一方で、民主主義という車輪の強調は、パブリック・サービスとしてのメディアの役割を規定する社会的責任論を生み出した。
ジャーナリズムの教育が議論された当初には「利益追求とパブリック・サービスという相反する目的を明確化すべく編集者団体を経営者団体から分離し、さらに個人の感情と冷静な判断を切り離す」という命題が示されていた。だがジャーナリズムは資本主義と民主主義を動力とする両輪が駆動することで発展し、当初の命題は矛盾を内包する。
そしてその矛盾を意識しながらアメリカのジャーナリズム研究が紡ぎ出した答えは、メディア機関の経済的な安定が、機関の独立性を高め、広告主を含む他の圧力からに抵抗できる言論機関となる、という考え方だ。そしてその考えの基盤となるのが、アメリカの「マス・コミュニケーションの基本的な責任は、自由であると言うこと[xviii]」だとする信念である。だがそれは天与のものではなく、「いかにして自ら自由を保持してゆくかを考えなければならない[xix]」と自覚されている。
だがメディア機関が巨大化した今日、果たしてジャーナリズムは資本主義から自由であると言えるのだろうか。メディアが産業として繁栄し続けてきた結果としてメディアの集中という問題が生じていることを、米国プレスの自由調査委員会が指摘したのは1946年のことだ。アメリカの日刊紙は1909年の2,600紙を頂点に減少し、ハッチンス委員会が調査した時点で1,750紙まで減少し、日刊紙がある都市のうち競合紙があるのは僅か117都市に過ぎないことが報告されている[xx]。
今日メディア産業における集中化はさらに大規模化し、ジャーナリズムはエンターテインメント・ビジネスに吸収されつつある。メディア産業に占める言論の場所はますます狭まってきている。
今は分社化されているが、ニューズコーポレーションはタイムズ、ウォール・ストリート・ジャーナル、20世紀フォックス、FOXテレビジョンなどなどを傘下におさめていたメディア・コングロマリットであり、ウォルト・ディズニー・カンパニーも映画制作のスタジオ、映画配給会社、ABCネットワーク、ESPNをはじめとする3つのケーブル・ネットワーク、世界中のディズニー・チャンネル、ディズニー・リゾートなどを有する総合コングロマリットである。かつてロバート・E・パークは「われわれが新聞の自由を語るとき、その自由が意味するのは、事実を調査したり公にする自由というよりむしろ意見を表明する自由のことである[xxi]」と述べているが、メディアの集中は「意見を表明する自由」を狭め、意見の多様性、多元性を損なっていると考えられる。
つまり今や資本のジャーナリズムの肥大化によって、相対的に言論のジャーナリズムが矮小化させられているということになる。ジャーナリズムが内包していた矛盾が、顕在化しているのだ。矛盾は顕在化したことで既に矛盾ではなくなり、ジャーナリズムは克服しなければならない課題を、すなわち資本主義と民主主義の均衡を取り戻すという新たな命題を持つことになる。ジャーナリズムの相対的な矮小化という「今ここにある危機」を共有してこの命題に取り掛かることで、ジャーナリズムをめぐる実践と教育と研究の相克は解消され、それらの融和、相互作用の連鎖を生み出すことができるのではないだろうか。
6.結語:ジャーナリズムをめぐる実践と教育と研究の新たな関係の構築に向けて
本節では、これまで述べてきたことを振り返って整理したい。
最初のメディアであるニュースレター、ニューズ本、パンフレットなどの新聞類は、「ニューズ(News)」を発信するメディアであった。イングランドでは17世紀、アメリカ植民地では18世紀に、大衆が政治に接近した時に「意見(Views)」を発信するメディアであることが強調される。ジャーナリズムは民主主義の発展とともに成長し、イングランドでは17世紀末には新聞は広告収入と購読料収入でビジネスとして成り立ち始める。
その後資本主義と共に発展する大衆市場という土壌に根付き、ジャーナリズムは成長してゆく。ナサニエル・ミスト(Nathaniel Mist:1737年没)のWeekly Journalが宣伝したように「死、処刑、最も大胆で、聞いたことのないような悪事の発見が毎週読める発行物[xxii]」としてニューズによって購読者を増やしてゆく。こうしてジャーナリズムは資本主義を発展の車輪として獲得する。その一方で「英語によるジャーナリズムの父」と言われるダイエル・デフォー(Daniel Defoe:1660-1731)が、事件が起きたらまず現場で取材をするなど、「今、ここで起きていることを報道する」という新聞ジャーナリズムの基本を示し、ジャナサン・スウィフト(Jonathan Swift:1667-1745年)のように諷刺を書いたり、政治的パンフレットを書き、ホイッグ、トーリーの両者を非難したり支援したりする論評を書くジャーナリストが登場する。そしてリチャード・スティール(Richard Steele:1672-1729年)とジョゼフ・アディソン(Joseph Addison:1672-1719年)はThe Spectator を創刊し、啓蒙的な論説(Views)ジャーナリズムを確立し、ジャーナルズムは民主主義を動力とする一つの車輪をより強固にする。
イングランドにおいてジャーナリズムが芽吹き始めた頃、アメリカ植民地のボストンで生まれたベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin:1706-1790年)が18世紀半ばの植民地アメリカにおいてジャーナリズムに資本主義と民主主義を両輪に授けることになる。
その後のアメリカにおけるジャーナリズムの歴史を見れば、ジャーナリズムは常に資本主義と民主主義の両輪によって動くことで発展してきたことが分かる。資本主義という車輪が強調されてイエロージャーナリズムが生じる一方で、民主主義という車輪の強調は、パブリック・サービスとしてのメディアの役割を規定する社会的責任論を生み出した。そんな中、ジョセフ・ピュリツアーが「利益追求とパブリック・サービスという相反する目的を明確化すべく編集者団体を経営者団体から分離し、さらに個人の感情と冷静な判断を切り離すためにプロフェッション教育を確立・制度化[xxiii]」しようとジャーナリズム教育の重要性を唱え、20世紀のアメリカのアカデミーにジャーナリズム教育、ジャーナリスト研究というものがもたらされた。だがジャーナリズムは、実践、教育、研究と言うそれぞれの分野で別々に論じられ続けた。ジャーナリズムとジャーナリストの教育に関して言えば、学士号がジャーナリストとして雇用される最低条件となるのは、1960年代に入ってからであった[xxiv]。
OJTが主となっている日本の場合、メディア機関はアカデミーに対して、ジャーナリスト教育については何も求めていない現状が日本マス・コミュニケーション学会の調査で明らかになった。OJTへの依存の問題点は、それが極めって狭い企業文化のコモン・ローに従ってエクイティない中で行われている点である。それがビジネスとしての比重が増してきている日本のメディア機関におけるジャーナリズムの相対的な矮小化へと繋がる。もちろんその現象は日本だけでなく、アメリカでも見られる。
その原因は、ジャーナリズムの教育が議論された当初の「利益追求とパブリック・サービスという相反する目的を明確化すべく編集者団体を経営者団体から分離し、さらに個人の感情と冷静な判断を切り離す」という課題を持ちながらも、ジャーナリズムが資本主義と民主主義という両輪を切り離すことのないまま発展してきたことにある。
ニューズ・コーポレーションやウォルト・ディズニー・カンパニーのように、メディア産業は集中化を一層強化し、そのために「意見を表明する自由[xxv]」が蔑ろにされ、ジャーナリズムは矮小化してしまった。
ジャーナリズムを動かす両輪は一方の車輪である資本主義が巨大化し、もう一方の民主主義の車輪が矮小化したことで、直進することはおろか、自律できなくなっている。だが、ジャーナリズムが内包していた矛盾が顕在化した今、ジャーナリズムは、資本主義という動力からの脱却し、民主主義という動力を強化するという新たな命題を見出した。ジャーナリズムの相対的な矮小化という危機に焦点を合わせることで、ジャーナリズムをめぐる実践と教育と研究の新たな関係を構築してゆけるのではないだろうか。
以上
【参考文献】
-バーク、ジェームズ「6.中世のコミュニケーション」(デイヴィッド・クローリー、ポール・ヘイヤー編『歴史のなかのコミュニケーション―メディア革命の社会文化史』 林進、大久保公雄訳 新曜社 1995年)
-別府美奈子『ジャーナリズムの起源』 世界思想社 2006年
-米国プレスの自由調査委員会『自由で責任あるメディア―米国プレスの自由調査委員会報告書』渡辺武達訳 論創社 2008年
-浜田純一、田島泰彦、桂敬一編『新訂 新聞学』(第4版)日本評論社、2009年
-小林恭子『英国メディア史』中央公論新社 2011年
-大井眞二「センセーショナリズムを考える―アメリカ・ジャーナリズム史の文脈から―」 1993年(『マス・コミュニケーション研究』No.43)
-大井眞二「米国ジャーナリズム史における政治的独立性『神話』」(法政大学社会学部学会『社会志林』56(4), 1 2010-03)
-大井眞二、小川浩一、小林義寛他「2013年度版『日本のジャーナリズム調査』を読む」(『ジャーナリズム &メディア』 7号、日本大学法学部新聞学研究所、2014年3月)
-パーク、ロバート・E.「新聞の博物学」 1925年 (ウィルバー・シュラム編『マス・コミュニケーション―マス・メディアの総合的研究―』学習院大学社会学研究室訳、東京創元新社 1968年)
-シュラム、ウィルバー『マス・コミュニケーションと社会的責任』崎山正毅訳 日本放送出版協会、1959年
-竹腰佳誉子「ベンジャミン・フランクリンの成功と印刷ネットワーク」(富山大学『人間発達科学部紀要』第6巻第2号、2012年)
-竹腰佳誉子「宗教家フランクリンと彼の大いなる野望」(富山大学『人間発達科学部紀要』第4巻第1号、2009年)
-津金澤聡廣、渡辺武達、武市英雄編『メディア研究とジャーナリズム 21世紀の課題』ミネルヴァ書房 2009年
-ウッド、ゴードン.S『ベンジャミン・フランクリン、アメリカ人になる』池田年穂、金井光太朗、比後本芳男訳 慶應義塾大学出版会 2010年
【注】 [i] Barbie Zelizer, Journalism and the Academy (Karin Wahl-Jorgensen, Thomas Hanitzsch The Handbook of Journalism Studies Routledge 2009) [ii] 「2013年度版『日本のジャーナリズム調査』を読む」(『ジャーナリズム &メディア』 7号)P253 [iii] 別府美奈子『ジャーナリズムの起源』P54 [iv] 同書P72-73 [v] 同書P48 [vi] 同書P48 [vii] 同書P49 [viii] 大井眞二「第11章メディア・ジャーナリズム教育」(『メディア研究とジャーナリズム 21世紀の課題』 P310) [ix] 大井眞二「米国ジャーナリズム史における政治的独立性『神話』」 [x] 大井眞二「第11章メディア・ジャーナリズム教育」(『メディア研究とジャーナリズム 21世紀の課題』 P310) [xi] マイケル・シャドソン「第4章アメリカにおけるメディア・ジャーナリズム教育」(『メディア研究とジャーナリズム 21世紀の課題』 P101-102) [xii] Barbie Zelizer, Journalism and the Academy [xiii]大井眞二「第3章 ジャーナリズム (5)ジャーナリズム教育(『新訂 新聞学』)P164 [xiv]大井眞二、小川浩一、小林義寛他「2013年度版『日本のジャーナリズム調査』を読む」(『ジャーナリズム &メディア』 7号、P264) [xv] ウッド、ゴードン・S.『ベンジャミン・フランクリン、アメリカ人になる』P28 [xvi] 竹腰佳誉子「ベンジャミン・フランクリンの成功と印刷ネットワーク」 [xvii] 竹腰佳誉子「宗教家フランクリンと彼の大いなる野望」 [xviii] ウィルバー・シュラム『マス・コミュニケーションと社会的責任』P148 [xix] 同書P150 [xx] 『自由で責任あるメディア―米国プレスの自由調査委員会報告書』P41 [xxi] ロバート・E・パーク「新聞の博物学」(ウィルバー・シュラム編『マス・コミュニケーション―マス・メディアの総合的研究―』P12) [xxii] 小林恭子『英国メディア史』P68 [xxiii] 同書P48 [xxiv] 大井眞二「米国ジャーナリズム史における政治的独立性『神話』」 [xxv] ロバート・E・パーク「新聞の博物学」(ウィルバー・シュラム編『マス・コミュニケーション―マス・メディアの総合的研究―』P12)
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